南北朝廷と応仁の乱 [鎌倉幕府滅亡と戦国時代突入]

歴史

鎌倉幕府の終焉 1333〜1338年

荘園の領主に対抗する武士たちは、悪党 と呼ばれていた。

  • 荘園…諸国に置かれた私有地。地頭が管理する
  • 全国の有名な悪党…楠木正成、足利尊氏、新田義貞

北条時政が権力を握った鎌倉幕府ひその後、150年間、世を治めます。第96代 後醍醐天皇は、幕府は悪政とし、楠木正成に倒幕を命じます。

途中で、新田義貞と足利尊氏が倒幕に加勢します。

鎌倉幕府滅亡

そして、相次ぐ謀反で、ついに1333年、北条高時が自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。

幕府がなくなり、後醍醐天皇が政治

しかし、後醍醐天皇の始めた[建武の新政]は公家(貴族)ばかりが優遇され、武家や民衆はより苦しい立場となった。

ここで足利尊氏が離反する

離反した足利尊氏と、楠木正成は対立し、一度九州へ身を引いたが、地方の豪族を味方につけて、京に再び後醍醐天皇を撃たんと舞い戻ってきました。

その数、足利尊氏側25万の兵。 後醍醐天皇(楠木)側3万の兵

10倍近い勢力差ですね。まぁ普通に考えたら勝てませんね。

足利尊氏は後醍醐天皇に対し、和睦を推言したそうです。しかし聞き入れてもらえず、戦うしかありませんでした。

そんな状況においても、後醍醐天皇に忠義を尽くし、もう一歩のところまで、陸軍総大将を追い込みましたが、あと少しで 限界に

そのまま楠木正成たちは自害する事になります。

楠木から死んで、足利尊氏が後醍醐天皇を攻める

足利尊氏は後醍醐天皇を追放し、光明天皇を即位させて、朝廷をつくります。ここが、北朝となります。

一方、追い込まれた後醍醐天皇は、吉野(奈良)まで逃れて朝廷を立ち上げます。ここが、南朝となります。

2つの朝廷があることは違和感ですが、この南北朝時代はおよそ60年続きます。

 

南北朝統一 1392〜1429年

南北朝時代末期、足利義満が南北朝を統一し、室町幕府の最盛期を築きます。

この頃、中国では、明が建国されて、足利義満は明へ使者を送り国交を開き、貿易を開始しました。

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