1156年〜1192年源平の争乱
平安時代後期、藤原摂関家が天皇の補佐役をすることが慣習化していましたが、これではいくら天皇が政治をしても、藤原家の手のひらで転がされているようなものです。
そこで、上皇という立場から幼い天皇をサポートする『院政』をはじめた。
この頃、新勢力となったのが『武士』[武士とは、自分の領地を守るために武装した地方領主のこと]
その中でも天皇の血筋につながる[清和源氏][桓武平氏]は別格
- 源氏 :摂関家のボディーガード
- 平氏 :院(天皇)の警護 ※白河上皇のお気に入り
その後、平氏全盛の時代になるので、源氏と平氏の溝はさらに深くなります。[平氏にあらずんば人にあらず]
つまり、この時代は、[院(天皇)][武士(源氏、平氏)]のどこが国を治めるかの国の政治とり合戦なのであります。
1180〜1192年 源頼朝と平清盛の争いに決着がつき、源頼朝が勝って、1192年に源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府をつくりました。この鎌倉幕府は150年続く事になります。
1274年〜1285年 鎌倉幕府の衰退
源頼朝の死んでから、後継ぎが次々に暗殺されることで、北条氏が実験を握ります。北条時政は源頼朝の妻であり、元を辿ると平氏の血筋だそうです。皮肉ですね。
また鎌倉幕府は幕府と御家人の主従関係で成り立ちます。幕府が御家人の土地の支配権を認めて、御家人は幕府に奉公します。戰となれば幕府を守るのです。
1268年〜 史上最大の帝国モンゴル襲来(チンギスハン)
中国を支配していた元(モンゴル)が日本に服従を求めてきました。8代執権の北条時宗はこれを断った。そして、モンゴルが3万の兵を引き連れて九州襲来!
私見だけど、普通、勝てるわけないよね笑 あの史上最大面積を支配していたチンギスハンに北条が勝てるわけがない。
当時日本にはない武器などで、当然モンゴル優勢…
1日たち、次の日に備えているところ
奇跡の暴風雨により、モンゴル一時退却により、日本が九死に一生となる。
そして数年後
今度は3倍以上の10万の兵を引き連れて再びモンゴル襲来
はい、負けですね。
と思っていた矢先、また暴風雨でモンゴルを撃退笑
どういうことですか笑
蒙古襲来がきっかけで…
蒙古襲来により、徐々に御家人との関係性が崩れます。
幕府の御家人は当然幕府を守る必要があるわけですが、今回のように何処かを争奪するわけでなく、ただただ侵略されるだけの状況は、消耗でしかなく、御家人にその対価を与えることができず、それがきっかけで、御家人の困窮化が進みます。
当然、御家人の不満が爆発し、その反発をおさえられずに、打ち出したのが、永仁の徳政令です。
これは御家人20年のあいだの借金をチャラにする施策であったが、金銭トラブルには関与しない姿勢をみせたので、逆に信頼性を低下させた。
そこに、後醍醐天皇が、倒幕運動を起こします。
ちなみに、鎌倉幕府は全国を支配していたわけではない?
鎌倉幕府ときくと全国支配していたように聞こえますが、幕府が支配していたのは、あくまで、御家人のみです。
御家人以外の人々は、幕府に従う必要もありません。寺院を頼ったり朝廷に従属したりしていました。
この頃、国家という概念はまだありませんでした。
コメント