勝海舟の処世術

歴史

もうなんか、この人好きやなー。調べれば調べるほど魅力的な人。僕もこんな器の大きな人になりたいなー。

幼少期

父親が家出、喧嘩、女遊びと破天荒で親族に座敷牢に閉じ込められていた強烈な人だったらしい。

家は貧しく、夏は蚊帳もなく、家の柱を割って薪にしたこともあるくらい💦

剣術と蘭学

そんな貧乏にも負けずに剣術修行を行い、免許皆伝を得るほど。その後、蘭学を学ぶ。

蘭学とは、江戸時代にオランダを介して伝わった西洋の学問(医学、天文学、兵学)

当時は、まだペリー来航前なので、異人の学問を学ぶということで、周囲から敬遠されていた。

[他人にどう思われても好きなことを貫いた]

渋田利右衛門との出会い

渋田利右衛門という商人と本屋さんで出会い、お互い蘭学に興味があるので話が弾み意気投合。このとき、勝海舟は自分の研究成果を熱く語る。

それに感服した利右衛門は、いろんな豪商を紹介したり、200両(1000万くらい)の研究費を提供したりする。

1850年(27歳)蘭学で生計を

蘭学で生計を立てるために、塾を開く。

それと同時に、佐久間象山から学んだ西洋砲術の知識と技術で、洋式銃や大砲の製造を行う。

噂が広まり、個人の手にはおえなくなり、外部委託したが、その鋳物師の手抜きが発覚した。何故か尋ねると、500両差し出し、黙認してほしいと言ってきた。

これに『武器は国を守るもの。なぜごまかすのか。この金でしっかりしたものをつくれ』と激怒し500両を突き返したそうです。

当時、まだ貧乏から抜け出していない勝海舟からすると500両は喉から手が出るほど欲しかったはず。

[目先の金よりも信用]

1853年(30歳) ペリー来航

日米和親条約と日米修好通商条約と結ばされる。

日米和親条約は、下田と箱館の開港や、下田にアメリカ人居留地の設置など。

日米修好通商条約は、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港、そして治外法権など。

治外法権は、異国にいながら異国の法律に支配を受けないようにすること。

1855年(32歳)下田取締掛に

ペリー来航で話が飛びましたが、銃製造の件等等、信用を勝ち取った勝海舟の噂は広がり、幕府の目付兼海防掛りの大久保一翁から、下田取締掛手付に登用してもらうことに。

その後、幕府の軍艦の操縦の伝習所の一期生に選ばれる。5年に亘り海軍技術を習得する。

そして1860年(37歳)日米修好通商条約批准のために幕府からの命でアメリカに使節することになる。

この時、勝海舟は咸臨丸の艦長を務める。

(余談)この咸臨丸にはあの福沢諭吉も同乗していた。勝海舟はひどい船酔いで部屋で寝込んでいたことに、福沢諭吉はよく思っていなかった。

1862年(39歳)坂本龍馬との出会い

龍馬は当時攘夷思想に心酔していたので、開国を唱える勝海舟を殺すつもりであった。

しかし、勝海舟はそれを悟った上で、『もし俺の言うことに非があれば殺せばよい』といって、龍馬に、尊王攘夷の不可や、世界情勢を説く。

これに深く感激した龍馬はその場で弟子入りをする。

1864年(41歳)西郷どんとの初会談

西郷隆盛は、長州征討の参謀です。

そして、勝海舟は幕府の重臣。

当然。西郷隆盛は勝海舟をやり込めれると考えて会談に臨んだのだが、勝海舟は『幕府はもうダメだから、これからは共和政治をおこなうべき。そして長州藩を叩くべきではない。』と幕府の人間でありながらこんなことを言い放ち、、

これに度肝を抜かれた西郷隆盛。『勝先生にひどく惚れ申し候』

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